曺琴袖さん(TBS)
TBSの「報道特集」は土曜日の夕方、地道な調査報道と旬の時事ネタをベテランキャスターがじっくり伝える良質な報道番組だ。ディレクターとして「消えた年金問題」キャンペーンなどに携わった曺琴袖(ちょう・くんす)さん(50)は今年7月、この番組の編集長に就任した。中学校に進学したばかりの娘を持つママでもある。テレビ報道の激務と子育てをどのように両立しているのか、50歳過ぎ独身の元新聞記者がお話をうかがった。(聞き手・井澤宏明=元読売新聞記者)
――お仕事について教えてください。
曺琴袖編集長 今の「報道特集」の仕事は、1週間で一番ホットなニュース性のあるテーマを一斉に取材して前半の特集を組むのと、後半の特集として、長期的な視点でどういうことが問題になっているのかを探してディレクターに取材してもらったり、ディレクターが取材したテーマを募集して、さらにひねって取材してもらったりしています。ウイークリーの番組なので、平日は緩やかで午後8、9時には帰れるんですけど、金曜日はほとんど「完徹」になります。2時間ぐらいは仮眠をとれるんですけど。
――金曜日は帰宅できないんですか。
曺さん 他のスタッフは局のすぐ近くにホテルをとって、そこで仮眠して土曜日の放送に向かうんですけど、私は子どもが生まれてからは、朝起きたときに私がいないと不安がったりしたので、帰って世話をしていました。洗濯機のスイッチを入れるとか、ちょっとした家事も進むので、今でもできるだけ帰るようにしています。
――男性と違って、仮眠も十分に取れないような状況ですね。結婚、出産のタイミングはどんなふうに考えていましたか。
曺さん 私たちが若いころは、結婚、出産された女性の先輩はほとんど現場から外れていかれたんですよ。「一人前の仕事ができるようになるまでは」という思いはどこかにあったと思います。
いろんなところに行って、事件取材をいっぱいやって、という時代を過ぎて、自分のこだわりのあるテーマで何かを作り続けることができる、という歳になってから結婚しました。周りは深夜労働、不規則勤務の女性ばかりで、圧倒的に不妊治療している人が多くて、私自身もしていました。それで、授かったときに良かったねということで産みました。36歳のときです。
病中の子ども預け出張へ
――テレビと新聞という違いはあれ、私よりほんの少し下の世代の女性が現場で仕事を続けていくためにそんなに苦悩されていたとは知りませんでした。育児休暇や会社の子育て制度は助けになりましたか。
曺さん 育休は1年間とって、子どもが1歳のときに復帰しました。会社に「時短制度」があるんですけど、それを申請したのにもかかわらず、1日も利用せず、子どもが5歳になるまでフルで働いていました。
――どうして利用できなかったのですか。
曺さん 産休から復帰して2か月、私は地方のある企業の不正の調査報道をしていました。証拠や内部告発の証言などを全部そろえて、経営者に「会社の不正をお認めになりますか。取材を受けるかどうか考えていただけませんか」と申し入れると、経営者の方、その場で発作を起こして倒れるぐらい、ショックを受けられたんですよ。
そのとき、子どもが脱水症状を起こして、下痢が止まらなくてミルクも受け付けないという状態になっていたんです。その最中に経営者から電話があって、「取材を受けることにしました。あした会社に来ていただければ応じます」って。「子どもの体調が悪いから日をずらしてください」とはとっても言えなくて、母に子どもを頼んで出張取材に行きました。母からは「お前は鬼だ」と言われましたが。報道の仕事をしていると、「生き死に」を含めた人の人生を背負っている中に放り込まれるので、自分の都合を優先できない場面にさらされます。とても時短勤務したいとは言っていられなくなってしまいました。
――そのときはどんなふうに子育てをしていたんですか。
曺さん 夜遅く帰ってくるので、午前零時ぐらいに寝かせていました。子どもは朝8、9時ぐらいまで寝るので、ご飯食べさせて、保育園にギリギリ連れて行って、仕事に行くっていう感じでした。当時、妹夫婦と同じ品川のマンションに住んでいたので、夕ご飯は、シッターさん、母、私、妹のうち誰か行ける人が行って、どちらかの家で作っていました。新宿に住む両親が車で通ってくれたので、必然的に母が多くなりました。
子どもが小っちゃいときも「報道特集」で金曜はほとんど徹夜だったので、土曜の朝、「車の中の30分だけでも一緒にいられるように」って、夫が子供と送りに来てくれました。TBSの玄関で一緒に降りて、自動販売機でパンを買ってあげて、「じゃあ行ってくるね」と別れるのが当時の習慣でした。夫もテレビマンで、いつも日をまたがないと帰って来ないような生活です。
――切ない場面ですね。お子さんはどんな様子でしたか。
曺さん 子どもに少し情緒不安定な面が表れたんですよ。私は家にいるときも、取材相手としょっちゅうベランダで電話して、パソコンで原稿の詰めの作業をやって、子どもが寄って来ても追い払って、何とか仕事を回していました。6歳になったとき、職場を朝の情報系の番組にチェンジして、子どもが寝ている時間に働こうと決めました。子どもが帰ってきたとき、「おかえり」と言ってあげたくて。
朝の番組をやると、いったん昼に解散になってその後、できあがった企画のプレビュー(試写)っていうのが夕方や深夜に入る。何時になるか分からないのでシッターさんの手配ができなくて、一人にして仕事に行くのはすごく心配でしたが、子どもに置き手紙したりして「寝たら行こう」と割り切っていました。幸い眠りの深い子だったので助かりました。
――うまくいかなかったことはありますか。
曺さん 小学1年生のころ、私が深く寝ちゃって、帰宅した子どもが外でピンポンを1時間以上鳴らし続けたことがあります。それから怖くなって、あまり昼寝をしないでおこうと思うようになりました。
同じころ、自宅で母と待ち合わせをさせたときには、母が遅れてしまって、カギがかかって家に入れないからと、当時は離れて暮らしていた妹のところまで歩いて行ったこともありました。「誘拐されたんじゃないか」とすごく心配して探し回りました。
罪悪感と責任感のはざまで
――同じように子育てをしている先輩からのアドバイスは支えになりましたか。
曺さん 子どもを犠牲にしているという負い目、罪悪感があるのと、職場に迷惑をかけたくないという思いが強いので、どちらの気持ちも聞いてもらいたい。
子どもの面倒を見ていると出社さえ時間通りにいかなかったりするので、タクシーをよく利用します。でも、罪悪感があるんですよ。そんなとき女性の先輩に、「仕事も家庭もある中で、タクシーは唯一の自分へのご褒美」とアドバイスされたときは楽になりました。
「私の子どもなんかいつもククレカレーだよ。遅くなるときには『今日もチン』っていうのが合言葉」と先輩から言われて、自分だけじゃないんだって。「手を抜いていいんだよ」と言われると、すごく楽になるんですよ。
――子育てをしていない男性とはどうしても分かり合えないと思ったことはありますか。
曺さん スクープの考え方とか取材の仕方などをすごく尊敬している男性の上司がいて、「こういう独自の話がありますけど」と報告に行ったんです。子どもが1歳何か月のときで、私はこの取材の詰めに必要な海外取材は難しいですよ、というつもりで行ったんですが、「いいスクープだ。人にとられるのは惜しい」って言われると、やっぱり行かなきゃと。乳幼児のいる私が海外出張で家を離れることがいかに大変か、という想像力はゼロなんですよ。
――耳が痛い話です。子育てをする男性が増えることで想像力を養うしかないんでしょうか。2年前に大きな病気をされたそうですね。
曺さん 早朝勤務のときに、半年で視力が0.8落ちたこともあって、睡眠が連続して2、3時間しかとれない、この体制は私には向いていないと思いました。2回目の早朝勤務を、という話があったときに、体力的に自信がないから1年で終わりにしてほしいと上司に話しました。
2年たったころに出血があって、乳がんが見つかりました。そのときは、「つらい」と言えない自分の性格に腹が立って腹が立って仕方がありませんでした。
やっと「ノー」と言える
――ご自身を責めてしまったんですね。病気を経験して、考え方に変化はありましたか。
曺さん 会社に対して、これでやっとノーと言える。「それはできません」「そんな働き方できません」と言えるんだ、ということに安心している自分もいました。
私は子どもを産んでも、「一人分の働き」ができるかどうかっていうことをすごく考えていたんです。病気を経験したことで、会社には、病気の人、精神的な葛藤を抱えながら何とか来ようとしている人、介護をしている人など、いろんな事情を抱えて働いている人がいて、「一か一じゃないか」ではないんだって、ようやく理解できました。
――後輩へのアドバイスの仕方も変わりましたか。
曺さん 病気をする前に、すごく優秀な女性の後輩から相談を受けて、「保育園は働く女性の味方だから、子どもが小学校に上がるまでは好きなだけ働け」ってアドバイスしたんですよ。病後にその後輩としゃべったら、「子どもが生まれてどうしようかと迷っている自分に、さらに働けとアドバイスした人はいない。びっくりしました」って。
私は仕事がすごく好きだったので、キャリアを何とか続けられるようにっていうアドバイスがありがたかったけど、子育て中の女性といっても人それぞれ。今は必ず、「子どもとの時間を楽しんで」と言っています。
乳がんにどうしてなったんだろうと考えたとき、深夜勤務が体にすごく悪いとか、外にも出ないで編集作業をずっとやっているから、食事もコンビニの簡単なもの、栄養のバランスの悪いものになったりとか、そんなことが背景にあったんだなと気づきました。
後輩の女の子たちが、やっぱり同じような状況で皆、働いてるんですよ。その子たちに、自分の病気のことをオープンにすれば、考えるきっかけになるんじゃないかと思っています。
子どもが小学校に上がるまでは、周囲の人に気遣われないよう、子どもがいることを感じさせないようにしてきました。取材相手も、私に子どもがいることを知らない人がほとんどでした。こうして子育てのことをオープンにするのは、自分の中ではとても大きな変化です。この取材に協力したいと思ったのは、乳がんが発覚して手術を受けたからです。私の経験がどこかの働くママ、パパへの応援になればいいなと思っています。
柔軟に対応できる仕組みを
――お子さんを育てながら仕事に真摯に向き合ってこられたご苦労とともに、曺さんの矜持のようなものを感じます。新型コロナウイルス感染拡大による「全国一斉休校」要請で、お子さんも家にいて大変だったんじゃないでしょうか。
曺さん うちの子は一人で家にいることに慣れ切っているんですよ。小学1年生からそうだったから。私はリモート勤務で(取材)ネタを決める会議に参加したりできたので、職場人生の中で一番ゆっくりできました。
一方で、私の学生時代の先輩、後輩、子どもの同級生のお母さんたちからは、「子どもを一人にしておけないから、もう仕事を辞めようかと思う」という悲鳴があふれていました。
政府は、企業活動を止めるより影響が少ないと真っ先に休校要請したと思うんですけど、学校や保育園が閉ざされることで、どれだけの混乱が起こるかということまで想像力が働かなかったのかなと思います。
――こんな制度、仕組みがあれば助かったという思いはありますか。
曺さん 心情的なことが一番つらいんですよ。例えば、午前7時解散で次のプレビューが午前9時からです、と。皆はとってあるホテルに寝に帰るんですよ。だけど、私は子どもの顔を見に帰るようにしていた。そのタクシー代がなぜ出ないんだ、ホテル代の半額以下なのに、と思っていました。
子育ての事情っていうのは、親に頼れる人とか、姉妹がいる人とか、まったく頼れない人とか、十人十色。長い子育てのスパンで柔軟に対応できるようにしてほしい。
――後輩たちを見て時代の移り変わりを感じますか。
曺さん 報道特集のディレクターはAD(アシスタントディレクター)を含め24人、うち
6人が女性で子どもがいるのは私を含め3人です。報道局の後輩を見ていると、結婚年齢が皆さん、早いんです。キャリアが中断される恐怖っていうのをそんなに持っていないのかな。
私たちの世代は、子どもを産んだがために好きな仕事ができなくなる人をたくさん見てきたので。上の世代に子育てして働く人がいればいるほど、キャリアの恐怖を感じなくなっていいのではないでしょうか。
<略歴>
曺琴袖(ちょう・くんす)さん 1970年生まれ。京都府出身。1995年入社。外信部、ニューヨーク支局記者、報道特集ディレクター、あさチャン!ひるおび!のプロデューサーを経て、2020年7月から報道特集の編集長に就任。1児のママ。
(2020年7月5日に取材しました)
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